「普遍」が気になった

約2ヶ月ぶりの更新だというのに、またこの手の話。


どうも「普通」という言葉に馴染めない。
もちろん使いはするけれど、使う際には注意を要する。
それは、それぞれの人で「それぞれの普通」を「同じもの」として会話する場面が多いと思うから。
(データは取っていません;これすらも印象です)


普遍という言葉がある。


「遍」について考えたことがなかったので、まずは調べてみた。
遍 - ウィクショナリー日本語版

  • あまねく

と、ある。「あまねく」?

あまねく - ウィクショナリー日本語版

  • 広く、全てに渡って、一般に

とのこと。


ついでに英語も調べてみる。

普通の:noromally
normallyの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書
普遍の:universally
universallyの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書

あ。やっぱり。「普通」は統計的に分散内に収まるような意味なんだ。
それに対して、「普遍」はもっと確定的なもの。


また、面白いと思うのは、Wiktionaryの「あまねく」にて「普く」と「遍く」が併記されていること。
つまり普遍とは、同じ意味の漢字を並べている、となる。


今日は「あまねく」の漢字を憶えたのでよしとしよう。

「泰然自若」を考えてみた

漢字好きなんです。単に。


不惑の歳を迎えたときに「とうてい惑わずなんて無理っ」と思って考えたこと。

「惑うことを惑わず」


人は迷うものです。だから、それでいいのだ、と。惑わずが「できてない」と思うより、それを認めて、迷っていいんだと腑に落とすことで不惑を解釈しなおした、というわけ。


今回、もう一歩踏み込んでみたのは、それでも迷い続けることは、ときにはしんどいこともあって、不惑の思想を貫くことは容易ではない、と感じたから。


そこで思い浮かんだのが「泰然自若」。
とはいえ、「落ち着きはらって物事に動じない様」なんてのは無理じゃ。

http://www.kokin.rr-livelife.net/yoji/yoji_ta/yoji_ta_1.html

では、それぞれ掘り下げてみてはどうだろうか。
上記のページには、各々の文字の意味が記載されている。引用をさせていただくと、ざっくり以下のとおり。

  • 泰:おおらかでゆったり
  • 然:肯定・承認
  • 自:おのずから・自然に
  • 若:したがう、〜のごとし

このページに「自若」の意味について、更に次のように書いてある。

自らにしたがうならば、他に惑う事はない。

なるほど、と思った。


では泰然を再解釈してみる。

僕としては「然」は2)の「ある状態にある」がしっくり来る。「自然」「天然」いずれも「そのまま」と解釈もできる。語順を無視して「泰然自若」の「不惑」を勝手解釈すると、


自らにしたがえば、他には惑わず。それが自然であり、そう受け入れればやすらか足り得る。


もう少し勝手解釈しなおすと、堂々めぐりになっているが、腑に落ちた。


自らにしたがうことで惑いは晴れる。それでも人は惑うもの。惑うことを恐れず、惑いつつ生きれば、それが自然。惑いで暗澹たる気持ちになるときは、自らにしたがえ。



だから、漢字は好きだ。

「書く」ということ

とにかく、簡単ではない。

というより、とても難儀なことだ。

誤りも残る。


音声言語は、空気を振動させ、鼓膜を振動させ、神経伝達を経て、言語野でシンボルとマッチングを取り(きっとフィードバックもあり)、“コトバ”として意味が伝わる。

そこには、言い直しもあり、抑揚もあり、更には身振り手振りもあり、つまりは、修正OK、補完情報OK、な世界観な訳。

受け取る側からすれば、こんなに修正や補完がなされる伝達手段は何と平易なことか。書かれた物から同じだけの情報を得るのは、難儀なことだ。


ってことは、如何に「書く」ことが難しいのか、想像に難くない。


なんだ、言ノ葉というのは、左様に舞うから、いや舞うことが宿命付けられたものだからこそ、平易なのかもしれない。使いやすくなければ、使えない。


だからこそ、「書く」ことは難しいのだろう。


ヒトは文字言語を使い始めるよりも、ずっと前から音声言語を使っているという。一度世に出してしまえば直すの大変、音のように“調子”は無い、インクと紙以外に能動性を表現するものは無い。修正NG(厳密にはOK;労力が高いということね)、補完情報なし(絵を入れれば随分違うけどね)。なんと薄っぺらいものか。


だからこそ、「物書き」さんは素晴らしい能力をお持ちだと、書きながら再認識する次第。いや、お持ち、というより、磨かれた、というべきだ。


さて、また明日から「書く」ことは常に修練だとして、行動しよう。

文系と理系の表現力の差

木曜日に文系修士一年という方とお話ししていて思ったこと。


話していた内容の筋は、文系は「調査」を元に結論を組み立てることになるが、理系は「結果」が出てしまう。つまり、理系では結論は「結果」から導かれるもので、「調査」のあと自ら組み立てた論理を展開するものではない、てな感じ。無論、社会科学では心理評価などのあとに統計的にデータを整理して「結果」を得るのだろうから、全てがこの話に繋がるかどうかは各論として問題があるが、まずは、一度話を汎化させて。


然るに「調査」から組み立てる結論には爬行性があり、故に若干曖昧にもできる。実験から得られる「結果」には曖昧さは含まれず、従って結論に爬行性を持たせることは困難となる。

修士課程(博士前期課程)では、修士論文を書き上げるわけだが、結論を得る際にこの爬行性に伴う曖昧さが、表現力の成長に差を生む要因となってしまうのではないか、という話をした。


論文を書くという行為は、結論にどんな意味を持たせるかの論証構成が練られている必要があるが、結論を導くまでに爬行性が伴うのであれば、論理展開の中で納得感を高めるための表現力が問われるであろう、と考えられる。「結果」により結論が左右され爬行性が低い場合には、もちろん程度の問題ではあるが、表現力の問われる率は下がるであろう、と考えられる。つまりここには学業を通した表現力のトレーニングが存在する訳だが、そもそも差がある状態でトレーニングを行うのであれば、よりキツいトレーニングを課された方が、より高い成長度合いを示すであろうことは想像に難くない。


だからと言って、理系の表現力が低くて良い、という結論を述べたい訳ではなくて、理系の(いわゆる)コミュニケーション能力が一般的に低く評価される要因の一つとして考えられるだろう、ということ。(実際に低いんだろうな、と思うけど)

つまり、理系は自らに課せられたトレーニング環境が、表現力を伸ばすには充分でないかもしれない、ということを意識して過ごしていくことで、表現力の早期獲得に近づけるのではないか?ってこと。


自分も理系だし、振り返ってみればそうかな、とも思う。この年齢になって論文のイントロダクションを書いていると、論証構成を如何に平易に組み上げるかがとても大事で、経験の中で充分に揉まれていないので、身についていないだろうな、と想像できる。積み上げた時間が違うのに同じレベルで表現できないことを嘆く必要はないし、そんなことは文系の方が費やした時間に対するリスペクトが無いことに等しい。だから、せめて意識して表現力を伸ばすように行動するのが、理系の私たちに大事なことなんだろうな、と思う。それって、自分のためだけじゃなくて、周りの人にも良い事。


何故って、解りやすく話が出来れば、お互い解りあえて嬉しいから。

易く云えばポータル、「窓」の観点

以前、必要があって議論した中に「窓」というコンセプトがあった。その後、慶応の村井先生が出演されたTV番組にて、「ブラウザが“窓”として機能する」旨の言及があった。

最近、スマートフォンクラウドサービスを頻繁に利用するのだが、今の自分にとって、スマートフォン「窓」の役割を果たしていると考えている。

具体的には、

  • スマートフォン上のTwitterで、ちょっとした時間にTLを追う。同様にTumblrDashboardを繰る。
  • その場で充分なものは読み捨てる、詳しい内容を知りたいものはInstapaperで記録する。
  • PCに向かったとき、Instapaperに記録したリンクを調べる。
  • 気になったものは更にEvernoteなりSpringpadなりで、整理して記憶への定着を(若干)高め、また将来確認しやすくする。

というところか。

ARとかVRとか、facebookとかいろいろとあるけれど、SFじゃないんで身体は実世界に居ざるを得ない。だけど、いろいろ考えながらツイートしたりブログを書いたりするとき、精神はネットワーク上に飛んでいるようにも思える。そういったとき、村井先生の「ブラウザは窓」というコンセプトを、うんうんそうだなぁ、と感じたりする次第。

ま、いくらそうやってインプットしても、それでアウトプットが増えなければ意味が無いんだけどね。(^^;) そこは、アブダクション推論の役に立つであろう、と自分を納得させてヨシとする毎日。(笑)


とまぁ、最近感じたことを言葉に表してみたのだけれど、こんな話に興味があるなら、もうちょっとだけお付き合いくだされ。

「個人」という古い発明品

残念ながらマクルーハンは読めてないし、社会学が専門でもない。工学、特に音響信号処理が専門で、哲学・文化・歴史などは裏付けのある話などできない。だけど、この記事にはとても共感した訳だし、特に最後の「僕らはきっと、とっとと個人であることをやめなくてはいけないのかもしれません」に強い納得感を覚えた。それは僕としては「窓」の意識と共通すると感じた(のです、私見には違いないが)。そうそう、リアル/サイバーの境界がどんどん曖昧になって行くと感じるし、実世界の自分/ネットワーク上の自分に違いなど感じないし。ひょっとしたら、僕が広く薄く世界に存在している、のかもしれない、なんて思いました。

手打ち蕎麦 玄炊庵

早出町にある手打ち蕎麦の店、玄炊庵。

http://sprng.me/9icr2

店構えと内装からすると、比較的新しい印象。駐車場は結構広い。道を挟んだ場所に、どうだろう、10台は確保しているのではないだろうか。

メニューを見てまず印象的だったのは「蕎麦の食べ方」が書いてあること。

  1. 落語で言う食べ方はない→好きに食べろ
  2. わさびはつゆに溶かすな、蕎麦を食べる合間に少しのわさびを舌に乗せ、味をリセットしろ→わさびはチェイサー

というもの。特に後者は勉強不足で知らなかった。やってみると確かに面白い。溶かして食べるのもアリだとは思うが、このやり方もいい。ただ、わさびが「ちゃんとしたわさび」であることは前提に感じた。エスビーの練りわさびでは、マイナスを感じるやり方だろう。もちろん、玄炊庵のわさびは「ちゃんとして」いる。

本日頂いたのは「深山ぶっかけそば」。もちろん冷やし。蕎麦は冷やしに限る。玄炊庵で「深山」というのは、「挽きぐるみの太打ち蕎麦」らしいが。「挽きぐるみ」とはWikipediaによると皮の一部まで挽いてある事を意味するようだ。蕎麦の実は固いため、挽いた際に最初に出てくるのは中心に近いところで、回数を重ねるほど固い種皮に近い部分が挽かれるらしい。このぶっかけ、「揚げた蕎麦の実」がかなりの量で乗せてあるのだが、これが揚げたてのようだ。つゆをかけると、これら「揚げた蕎麦の実」がパチパチと音を立てる。食べればカリッとした食感の「揚げた蕎麦の実」が美味い。そして熱いということは全くない。温度も調整しているかもしれない。このカリッとした食感、食べ終わるまで失われない。

また行こう。

映画「ベンダ・ビリリ」を観た

内容について言及してもあまり意味が無いと思う。感じたことを一口に述べるなら「魂」と「愛」。Staff Benda Bililiの音楽はWikipediaによると、ルンバにカテゴライズされるようだ。全編を通して彼らの音楽が「聴け」、それが「魂」を示し、彼らの音楽の背景が「彼らの音楽」と「事実」によって語られる、それが「愛」を感じさせる印象。
映画を観るとライブに行きたくなる。できればそこで踊りたくなる、そんな印象もある。
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