自知者明+言語

およそ生き物というものは、感覚器官というセンサーで外界の変化を信号として取り込み、神経を通じて脳で信号をより分けつつ情報として捉え直して生きている。特に人間は、情報に意味を与えることで、他の動物よりも高い社会性を獲得できたのだろう。
(という、信号/情報/意味の三階層モデルは、以前、原島先生の講演でお聞きしたもので、ただ、出展が原島先生かどうか定かには記憶していない)


「言葉」というものは空気を震わせ、鼓膜を震わし、その信号を神経により脳に送って、その意味を得る。「言葉」は人間にとって、社会を成していくのに必須の要素なのだと思う。


さて、先だってから「言葉」というものについていくつか考えたことがあるので、それをまとめてみようと思う。


ツイッターでこんなことを述べた。

例え誰かに言われた事がきっかけで何かを感じ始めたとしても、それは当人が勝手に感じる事で、自己責任だ。ただ、人は全てをコントロールできる訳でもない。その責任を果たすために言葉を使って意思を疎通させることは大事な事だ。決して言葉なしで成せる訳でも、言葉だけで成せる訳でもない。

また、こんなことも述べた。

認識の転換にはやはり言語化が有効である。無言より音声言語が意外にいい。あとで文字言語に落とし込むとなおいい。文字からではない気がする。段階的に思考を制約して自由変数を減らすことで、新たな認識が明確になる。って、実はこれは補助関数法による制約付き最適化だったのか?!(笑)


言葉には音声と文字と、更には身振り手振り表情といったノンバーバル(nonverbal;「言葉を用いない」の意)がある。専門的には、イントネーション、リズム、ポーズ、声質といった言語の周辺的側面を示す「パラ言語」というものも存在する。
パラ言語


人は音声言語をまず獲得し、それよりもずっとずっとあとの今から数千年前に文字言語を獲得したという。


「思い」を言葉に表すことを考えてみよう。
思いの中には、言葉にしづらい部分も存在する。そのしづらさがあろうとも、作家さんはその素晴らしい言語化能力でかなりの部分を言葉にしてくれる。とはいえ、これは余談。
音声言語は「パラ言語」も併せて、表現のバリエーションが豊かである。つまり、「思い」の中のどれだけの部分を削ぎ落として言葉とするか。その度合はさほど大きくないと言える(「さほど」と曖昧な言葉を使うのは、定量的な評価が非常に難しいところだから)。
一方、文字言語というものがある。今この文章を書いているのもそれだ。文字にすると「パラ言語」「nonverbal」全て削ぎ落とされてしまう。然るに、削ぎ落としの度合いはかなり大きなものであると言えよう。


人が認識するものは、直接会って話をしていればパラ言語やnonverbalも含めた多彩な情報を以て、認識されることとなる。翻って、直接会ってで無い場合、昨今ではSNSやチャットといった文字を基本においたコミュニケーション手段が多く用いられていることだろう。つまり、かなりの情報が落とされた手段でしか、やり取りが行われないことを示している。


では、情報が削ぎ落とされてしまうことは悪いことなのか?


もちろん、一面的には悪いことであろう。しかしながら、「シンプル」にすることは「本質」を突くためにとても重要なことだと思い返せば、良い面があることはすぐに気がつくであろう。


だから、何かの思いを文字まで落としこむこと自体は、かなり「いいこと」なのだ。


されど、
いきなり文字で始めてしまっていいかというと、そうではないと思う。
自分が感じたことを意思疎通するために言葉を使う。またそして、己との意思疎通のためにも言葉を使う。
「考える」という行為は頭の中で何らかの言語を用いて行われるだろう。しかし、全て「無言の言葉」で考えられている訳はない。必ず「言葉にしづらい」部分は存在するからだ。そういった部分も無言のままならば、「思い」そのもので認識されて意味を感じていると思う。
それを音声という言葉に直していくと、「思い」そのものの部分は言葉にならずはたと困ることとなる。その困ったものが重要であるかないかは、言葉にならずとも当人には解っている。重要であれば、何とかして言葉にする「言語化努力」を必要とするだろう。
このとき、「思い」から「音声」へと変換が行われるのだが、この変換には何らかの削ぎ落としが含まれてしまう。
だが、真剣に考えて「これは本質を突いた!」と思えるような言葉に出会えれば、その削ぎ落としは有効に働いて、残ったものの価値は高まる可能性すらある。
更には、音声だったものを文字に直すこともでき、文字言語への変換においても、同様の削ぎ落としが発生する。

だから、思いから音声へ、音声言語から文字言語へと変換を重ねることで、認識が明確になる。そして思い自体は自分が感じたこと。自らの責任において、言葉を使って思いを表し、自らに対しては認識を明確にし、友人たちとは意志を疎通させる。


老子の一節に「自知者明」というものがある。
自知者明
明というのは、智よりも深い洞察力があること、らしい。


思いを言葉に直すとき、音声を経て文字と変換してみたことがある。すると、いきなり文字に落としこむよりもやりやすかった。これは「削ぎ落とし」を段階的に行うことで、ゆるく本質を突いていったのだろうと思う。


先に述べたが、言葉に直すことは自らの認識を明確にする効果がある。これは「己を知る」ことの手助けであり「明」である自分に近づく一歩であろう。
そして、明確になった認識は、新たな自分を発見し、新たな思いを生み、その思いはいずれ言葉によって自らの認識に役立つことがあろう。
こうやって、言葉にすることが己を知るための一助となり、また思いと言葉の連環が連鎖して、己を知る上昇気流に乗っていける。


日頃からそんな風に在りたい。