個人力

こんな記事を読んだ。

群れから新発想は生まれない、個人の力を磨こう

集合知、という言葉があるが、どうもその使われ方に疑問を覚えるときがある。という訳で、いつものWikipediaに頼ってみることにする。


さて、「集合知」をGoogle先生に問うてみれば、「集団的知性」が最上位に現れる。これを基準としよう。そこには、

集団的知性

多くの個人の協力と競争の中から、その集団自体に知能、精神が存在するかのように見える知性である。

と書かれている。この文章を読んで、自分の抱いていた違和感を現す部分が「多くの個人」であると感じた。つまり、「集合知」という言葉を使うからには、「多く」の個人が関与する必要があるだろう。さて、この冒頭の説明の後半に、次のような記述がある。

Atlee は集団的知性を「集団思考(集団浅慮)や個人の認知バイアスに打ち勝って集団が協調し、より高い知的能力を発揮するため」のものと主張している。

集団思考(集団浅慮)」って何だ? 浅慮などと不穏当な言葉が現れるということは、「集団」と「知」を結ぶに際して、注意すべき点があるということだろう。リンクをたどって、Wikipediaに訊いてみる。


集団思考

集団思考(しゅうだんしこう、英: groupthink)とは集団で合議を行う場合に不合理あるいは危険な意思決定が容認されること。集団浅慮と訳されることもある。

なるほど。つまりは集団であることが間違った方向に意思を向かわせることがある、と。そしてこのページの下部に、「欠陥のある決定の兆候」がある。

  1. 代替案を充分に精査しない
  2. 目標を充分に精査しない
  3. 採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない
  4. いったん否定された代替案は再検討しない
  5. 情報をよく探さない
  6. 手元にある情報の取捨選択に偏向がある(Selective Bias in Processing Information at Hand)
  7. 非常事態に対応する計画を策定できない

うーむ…。気になっていた点に符合するような気が…。最初に見た「群れから新発想は生まれない、個人の力を磨こう」の記事を読んで共感した部分と、「集団思考」で指摘されている部分は、共通点があると感じられる。

プロジェクトマネジメントの観点で考えれば、通常、目標は精査するだろうな。同じく、計画に関しても大丈夫だろう。だが、情報やアイデア(案)に関する部分は、どれだけ自分を疑うか、にかかっているように思われる。ま、情報をよく探さない、のはあまり人のことを言えないのだが…。いずれにしても、「集合知」を謳うなら、かなりの人数を考慮に入れて初めて面を上げられる程度の謙虚さを持ちたいと感じた。

日頃から思うのは、研究やエンジニアリングは「非常識」からの発想も重要であると、感じる点。エジソンは(きっと)奇人だったろうし、アインシュタインとて同様だろう。今知っていることに基づいて考えても、知らないことは理解できないのであって、「非常識」に基づく発想は、その知らないことにアプローチしている可能性を持つ。だから説明を上手にするのはとても大事なことなのですね。

さてさて、個人力を高めるべく皆日々研鑽を積むわけであるし、但し「自分のフィールド」を決め過ぎないようすべきだろうし、自分がしばらく前に記憶したことも疑うべきであろう。そうやって、開き直りでも何でもいいので、明日の自分は今日とは違う新しい自分、として生きていければ「個人力」を高めるには有益なことだろうと思う。ひとりの人間がそのひとつの頭の中で連関させた多様な知識が、常識を疑う非常識を生み出し、それが新しい理論として実証されるのであれば、そこに新しい理論が成り立つのであるから。


だから、「非常識」バンザイでいいと思うのです。


それから、この「群れから新発想は生まれない、個人の力を磨こう」を書いている方。科学の知見を人という集団になぞらえて、そのアナロジーを持って社会を理解しているのだろうか。その手の理解の仕方は好きな方だ。一見関係ないように思えることも、アナロジーの捉え方によっては、社会を表現していることがあってもいい。きっといろんなものが根っこの部分で繋がっていて、その筋を垣間見た人達が居るんじゃないかと思う。そんな風にいろいろな物事から、身近なものに対して今までにない気づきを得ることができれば、明日やってくる新しい自分は思わぬ向きへ進んでいくという、とても楽しい分からない未来へと行き着くことができるんだろうなー、と思いましたとさ。最後はとても抽象的で謎なまま終わるのです。(笑)