易く云えばポータル、「窓」の観点

以前、必要があって議論した中に「窓」というコンセプトがあった。その後、慶応の村井先生が出演されたTV番組にて、「ブラウザが“窓”として機能する」旨の言及があった。

最近、スマートフォンクラウドサービスを頻繁に利用するのだが、今の自分にとって、スマートフォン「窓」の役割を果たしていると考えている。

具体的には、

  • スマートフォン上のTwitterで、ちょっとした時間にTLを追う。同様にTumblrDashboardを繰る。
  • その場で充分なものは読み捨てる、詳しい内容を知りたいものはInstapaperで記録する。
  • PCに向かったとき、Instapaperに記録したリンクを調べる。
  • 気になったものは更にEvernoteなりSpringpadなりで、整理して記憶への定着を(若干)高め、また将来確認しやすくする。

というところか。

ARとかVRとか、facebookとかいろいろとあるけれど、SFじゃないんで身体は実世界に居ざるを得ない。だけど、いろいろ考えながらツイートしたりブログを書いたりするとき、精神はネットワーク上に飛んでいるようにも思える。そういったとき、村井先生の「ブラウザは窓」というコンセプトを、うんうんそうだなぁ、と感じたりする次第。

ま、いくらそうやってインプットしても、それでアウトプットが増えなければ意味が無いんだけどね。(^^;) そこは、アブダクション推論の役に立つであろう、と自分を納得させてヨシとする毎日。(笑)


とまぁ、最近感じたことを言葉に表してみたのだけれど、こんな話に興味があるなら、もうちょっとだけお付き合いくだされ。

「個人」という古い発明品

残念ながらマクルーハンは読めてないし、社会学が専門でもない。工学、特に音響信号処理が専門で、哲学・文化・歴史などは裏付けのある話などできない。だけど、この記事にはとても共感した訳だし、特に最後の「僕らはきっと、とっとと個人であることをやめなくてはいけないのかもしれません」に強い納得感を覚えた。それは僕としては「窓」の意識と共通すると感じた(のです、私見には違いないが)。そうそう、リアル/サイバーの境界がどんどん曖昧になって行くと感じるし、実世界の自分/ネットワーク上の自分に違いなど感じないし。ひょっとしたら、僕が広く薄く世界に存在している、のかもしれない、なんて思いました。