文系と理系の表現力の差

木曜日に文系修士一年という方とお話ししていて思ったこと。


話していた内容の筋は、文系は「調査」を元に結論を組み立てることになるが、理系は「結果」が出てしまう。つまり、理系では結論は「結果」から導かれるもので、「調査」のあと自ら組み立てた論理を展開するものではない、てな感じ。無論、社会科学では心理評価などのあとに統計的にデータを整理して「結果」を得るのだろうから、全てがこの話に繋がるかどうかは各論として問題があるが、まずは、一度話を汎化させて。


然るに「調査」から組み立てる結論には爬行性があり、故に若干曖昧にもできる。実験から得られる「結果」には曖昧さは含まれず、従って結論に爬行性を持たせることは困難となる。

修士課程(博士前期課程)では、修士論文を書き上げるわけだが、結論を得る際にこの爬行性に伴う曖昧さが、表現力の成長に差を生む要因となってしまうのではないか、という話をした。


論文を書くという行為は、結論にどんな意味を持たせるかの論証構成が練られている必要があるが、結論を導くまでに爬行性が伴うのであれば、論理展開の中で納得感を高めるための表現力が問われるであろう、と考えられる。「結果」により結論が左右され爬行性が低い場合には、もちろん程度の問題ではあるが、表現力の問われる率は下がるであろう、と考えられる。つまりここには学業を通した表現力のトレーニングが存在する訳だが、そもそも差がある状態でトレーニングを行うのであれば、よりキツいトレーニングを課された方が、より高い成長度合いを示すであろうことは想像に難くない。


だからと言って、理系の表現力が低くて良い、という結論を述べたい訳ではなくて、理系の(いわゆる)コミュニケーション能力が一般的に低く評価される要因の一つとして考えられるだろう、ということ。(実際に低いんだろうな、と思うけど)

つまり、理系は自らに課せられたトレーニング環境が、表現力を伸ばすには充分でないかもしれない、ということを意識して過ごしていくことで、表現力の早期獲得に近づけるのではないか?ってこと。


自分も理系だし、振り返ってみればそうかな、とも思う。この年齢になって論文のイントロダクションを書いていると、論証構成を如何に平易に組み上げるかがとても大事で、経験の中で充分に揉まれていないので、身についていないだろうな、と想像できる。積み上げた時間が違うのに同じレベルで表現できないことを嘆く必要はないし、そんなことは文系の方が費やした時間に対するリスペクトが無いことに等しい。だから、せめて意識して表現力を伸ばすように行動するのが、理系の私たちに大事なことなんだろうな、と思う。それって、自分のためだけじゃなくて、周りの人にも良い事。


何故って、解りやすく話が出来れば、お互い解りあえて嬉しいから。