「書く」ということ

とにかく、簡単ではない。

というより、とても難儀なことだ。

誤りも残る。


音声言語は、空気を振動させ、鼓膜を振動させ、神経伝達を経て、言語野でシンボルとマッチングを取り(きっとフィードバックもあり)、“コトバ”として意味が伝わる。

そこには、言い直しもあり、抑揚もあり、更には身振り手振りもあり、つまりは、修正OK、補完情報OK、な世界観な訳。

受け取る側からすれば、こんなに修正や補完がなされる伝達手段は何と平易なことか。書かれた物から同じだけの情報を得るのは、難儀なことだ。


ってことは、如何に「書く」ことが難しいのか、想像に難くない。


なんだ、言ノ葉というのは、左様に舞うから、いや舞うことが宿命付けられたものだからこそ、平易なのかもしれない。使いやすくなければ、使えない。


だからこそ、「書く」ことは難しいのだろう。


ヒトは文字言語を使い始めるよりも、ずっと前から音声言語を使っているという。一度世に出してしまえば直すの大変、音のように“調子”は無い、インクと紙以外に能動性を表現するものは無い。修正NG(厳密にはOK;労力が高いということね)、補完情報なし(絵を入れれば随分違うけどね)。なんと薄っぺらいものか。


だからこそ、「物書き」さんは素晴らしい能力をお持ちだと、書きながら再認識する次第。いや、お持ち、というより、磨かれた、というべきだ。


さて、また明日から「書く」ことは常に修練だとして、行動しよう。